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新時代のライフスタイルー持つ様式とある様式ー



ソファ

島村知子

先日、大学の卒業論文を見つけました。 十数年ぶりに読んでみたら、今私が仕事でしていることのテーマがぶれずに書いてありました。物をたくさん持つ生き方とあり方の話。恩師に「文学部の学生の卒論は人生のテーマになるぞ」と言われていたのですが、まさに!!となりました。 お客様に話したら「読みたい」とリクエストもたくさんいただいたので、せっかくだからこちらで公開しようと思います。最後にはこの論文から十数年たった「今」思うこと。新時代のライフスタイルについても言及しました。あなたの生き方の根底にあるものが見えてくるかもしれません。一つの読み物として、楽しく読んでいただけたらと思います。 *存在様式とある個所は、「生き方」に置き換えて読んでいただくとわかりやすいかもしれません。持つ生き方と、ある生き方。

パソコンがあるデスク


要約

 近年、生き方や生きることへの意味への興味関心が高まってきている。生き方自体も多様化してきている。多様な選択肢を持つ現代人にとって「生きる」ということはどのようなことだろうか。また、どのうように生きることが幸せなのであろうか。それを考える一つの指標として、エーリッヒ・フロムのいう2つの存在様式ーつまり「持つこと」と「あること」ーに着目する。

 人は産業社会の中で多くの物を持つことが幸せであると考えてきた。産業社会は、財産を持ち、それを守り、増やすことを良しとする社会である。持つことの基本はこの産業社会のルールにある。そのため現代人は判断が極端に偏っている。幸せになるために人々はより多くを持とうとする。その対象は物体にとどまらず生き物や、健康など形のないものも含む。また、人は持つことを通じて自己を認識し、持ち物がその人自身を表すことすらある。人は物中心の産業社会の中で、持つことを望む傾向にある。「持つこと」は所有を望み、支配を望むことである。

 「持つこと」に対して「あること」は人中心の社会に多く見られる傾向である。産業社会である現代日本にはあまり見られない。「あること」は持つことなく、持とうとすることもなく、その存在をただ認め、存在すること自体に喜びを感じ、自分の能力を生産的に使用する。世界とひとつになる様式である。

 選択肢の多い現代でどう生きていけばよいのか。答えは自分の尺度を明確に持つことである。周囲の情報に振り回されず、自分にとって最上のものを選ぶことだ。今までの幸せの基準であった持てば持つほど良いという概念を捨て「持つこと」だけだはなく「あること」も選択肢に入れ、バランスを取りながら、各自が各自なりに考えてゆくことで、充実した生き方への道が開けるだろう。


 
 

 近年、生きがいや人生におけるプライオリティーの選択など、生き方や生きることの意味への興味、関心が高まっている。雑誌やテレビなどでは多くの情報が飛び交い、生き方の選択も以前と比べ多様化してきている。情報が増え、物があふれ、多様な選択肢を持つ現代人にとって「生きる」ということはどのようなことだろうか。また、どのように生きることが幸せなのであろうか。一昔前なら、女性は良い相手を見つけて家庭に入ることが幸せとされていた。男性もまた、良い職に就き、そこで生涯働き続けることが一般的な生き方であった。現代社会において一般的な生き方、幸せとされる生き方とはどのようなものだろうか。

 それを考える一つの指標として、社会心理学者エーリッヒ・フロムのいう、二つの存在様式ーつまり「持つこと」と「あること」ーに着目したい。フロムはその著書『生きるということ』(佐野哲郎訳、紀伊国屋書店、1977年)の中で、この二つの存在様式のいずれが強いかが個人の生き方の違いを決定すると述べている。

 十八世紀から十九世紀にかけて、ヨーロッパを中心に産業革命が起こり、それと共に人々の生活も変化してきた。産業革命以後は、人は自然をコントロールし、科学技術の進歩により限りない生産ができるようになった。自然の支配を通じて得られた物質的豊かさは人々に新しい自由の感覚を与えた。持つこと、つまり物質的に豊かになることが幸福になることだと考えられたのだ。これが「持つ様式」に通じる考えである。

 しかし、今、人々は徐々に、持つこと、物質的にゆたかになることだけでは幸福になれないということに気づきだした。ではなぜ持つことだけでは幸福になれないのか。産業社会における、人生の幸福とは限りない快楽の追求にある。それは、すなわち、限りない欲求の充足である。そして、それを求めようとして、自己中心的になり、利己心を持ち、貪欲になる。しかし、自己中心的では人々が求める平和や調和という幸福は得られないのである。豊かな産業社会がもたらした「持つ様式」は、幸福になるために物を求めたが、その一方で人々が求める平和や調和は得られないという矛盾を孕んでいるのである。

私は人々がこの事実に気づいたことで、生き方にも変化が出てくると思っている。「持つこと」と「あること」のバランスを取ることが、その人の生き方を決定付けるのではないかと考えている。大学生活の中で高校生の時にはなかった選択肢が開かれ、社会へ向けての進路を考えた時、自分はどう生きていけばよいのかが問題となった。そこで、この論文を通じて、そもそも「生きる」とはどういうことかを、二つの存在様式と関係づけながら考察していくとともに、自分のこれからの生き方についても考えていきたい。



豪華な寝室


第一章 「持つこと」と「あること」
 第一節 持つこととあることの違い

フロムのいう二つの存在様式とは具体的にはどのようなものだろうか。それはどのように私たちの生活と関わっているのだろうか。まずは、私たちの生活の中での存在様式の在り方から、二つの存在様式の違いを明らかにしていく。


持つこと対あることの選択は常識に訴えるものではない。

前掲書、33ページ

 上記のようにフロムは述べているが、私たちが生きていく中で「持つこと」はごく正常な機能である。そこに選択の余地はない。衣食住をはじめとして生きるためには物を持たなければならない。最低限に必要な物だけではなく、娯楽のために持っているものも多い。本、家具、テレビ、宝石などの装飾類、ゲーム機など持っている物を挙げればきりがない。現代は特に持つこと、それもできるだけ多くの物を持つことがよしとされている社会である。

 この持つ、所有するという感覚は、物質に限ったことだけではない。英語で時間を尋ねるときにWhat time is it now?という言い方とDo you have a time?という言い方ができる。二つの様式の現れである。どちらも言っている内容は時間を問うものである。しかし、存在を表すbe動詞と所有を意味するhaveを使った表現の間には違いがある。物質的な<物>だけではなく、その所有の意識は時間、人、空間など幅広い。この二通りの聞き方は、日本語ではどちらも「今、何時ですか」という表現になる。「時間を持っていますか」という表現は日本語にはないのだ。

 日本語と英語の違いが出たので、ここで述べておくが、あることと持つことの違いは本質的には西洋と東洋の違いではない。その違いはむしろ人中心の社会(文化)と物中心の社会(文化)にある。もちろん、物中心社会の方が持つことに傾倒している。本質的には、西洋と東洋の違いではないと述べたが、持つ方向付けは西洋の産業社会の特徴であり、東洋以上に、人々の生活に根付いているのである。

 簡単な表現で言えば「あること」とは持つことなく、持とうとすることなく、その存在をただ認め、存在すること自体に喜びを感じ、自分の能力を生産的に使用する。世界とひとつになる様式である。それに対して「持つこと」とは所有を望み、支配を望むことである。現代に生きる私たちには持つことの方が容易に理解できるだろう。

第二節 日常の中での持つこととあること

 私たちが生きている社会はどれだけ生産し、利益を上げるかということに重きを置いている社会なので、ある存在様式は目に見える形ではめったに見られなくなってきている。多くの人は持つ様式が最も自然な存在様式であると思っている。ある存在様式の存在を全く忘れている人さえいるかもしれない。そのような人にとっては、持つ様式が唯一の存在様式である。現代の生活は物が中心であり、そのために、人々がある存在様式の存在に気づき、理解することすら困難にしている。とはいえ、ある存在様式を認識していない人の中にもある様式は必ず存在している。この二つの存在様式が人間経験に根差しているからである。この二つの存在様式は私たちの日常生活の中のいたる所に見受けられるのだ。

1,学ぶこと

学ぶこと

 学びの場と言ってすぐに思い出されるのは学校であるが、日本の学生のほとんどは持つ様式の学生である。それは日本の教育方法や試験内容が大きく関わっているだろう。彼らは授業を聞き、内容を理解すると同時にできる限り授業の全ての内容をノートに書き込もうとする。中には教師の話もそこそこに黒板を写すことのみに力を注いでいる学生すら見受けられる。なぜ熱心に板書を写し取るのだろうか。その理由は試験のためである。ノートに書き残したことを暗記し、試験で良い点を取るために書くのだ。しかし、彼らはそのノートの内容と自分の思想を結び付け、考え、再構築し、より広く、豊かにすることはしない。その代わり、自分の引き出しの中に整理し、収めるのである。彼らは新たな知識、もしくは、先人の所説の集積の所有者となったのである。

 持つ様式の人の学びは、学んだことを固守することが全てである。そこから新しい物を作り出したり、創造する必要はない。また、持つ様式の人は新しい物事に出会うと、狼狽する人も多い。なぜなら、持つ様式の人にとって新しい知識は、それまで彼らが持っていた情報に疑問を抱かせるからである。新しい知識は、変化や成長をもたらし支配できない物と同じように、持つことを世界との結びつきにしている人にはとても扱いにくい物であり、時として恐れるものである。

 一方である様式の人の学習の仕方は異なる性質を持っている。まず、彼らなりの疑問や考えをもって授業に臨む。思いを巡らしているので、関心も持っている。言葉や思想を受動的に受け入れることなく、彼らは聞く。ここが持つ様式を取る人との一番の質の違いになるのだが、ある様式の人は能動的、生産的な方法で受け入れ、反応する。ただ、知識を所有するようになるのではなく、彼ら自身が知識を能動的に受け入れ、その知識に触発され、彼ら自身が変化するのである。彼らは集中し、ひとつの物事を考えることを好む。それゆえ、ある様式の学びが普及するには、授業は刺激的な題材を提供しなければならないだろう。

2,読書すること

読書すること

 読書することは、読む本の内容によって様式が決まてくるといってもいいだろう。つまらない本を読めば、文章はまるでどうでもよいテレビ番組のように、一方的に入ってくるだけである。そこに、生産性はない。一方で、引き込まれるように読める小説などは、内的な参加と共にーつまりはある様式においてー読むことができる。

 しかし、たいていの場合、読書は持つ様式においてなされている。好奇心を刺激されると読者は知りたくなる。このあと、ストーリーはどう展開していくのか、主人公は活きるのか、死ぬのか、犯人は誰なのか。本と対話し感性を磨くこと以前に、急いで続きを求めてしまう。持つ様式の読者が、話の結末を知った時、彼らは物語をすでに知っているという形で持つのである。物語を持ちはするが、彼らは知識を増やしたわけでもなければ、小説の中の時運物や出来事を通じて、人間や自分自身、世の中について考えることはしていない。本の中の人物(あまたは著者)と対話ができないのだ。小説以外の本についても同じことが言える。哲学書を例に挙げてみても、彼らは、プラトンやハイデガー、カントの思想を知りはするが、そこまでであって、それ以上のものを学ばない。彼らの思想に対して矛盾を感じることもなく、そこから発展させて物事とつなげることもない。彼らの思想が本物か偽物かの区別すらつかないのである。

 ある様式の読み手は、しばしばベストセラーになっている本でも自分にとってはつまらないものという判断を下す。また、彼らは持つ様式の読者よりも、本を深く理解しているだろう。それは彼らが本(著者)と対話することを知っているからである。

3,愛すること

愛すること

 愛することにもやはり持つ様式とある様式が存在する。持つ様式においての愛することと言うのは、愛を持つことだろうか。愛は抽象的概念で物ではないため、持つことはできない。では、持つ様式の人は愛することにおいて何を持つのか。それは、愛する対象である。恋愛においては恋人を。親子愛においては、親、または子を。時にはペットである犬や猫などを所有の対象とする。彼らは所有の対象を言いなりにし、拘束し、支配する傾向にある。「私の愛する子は私の言うことを何でも聞くいい子でなければならない」というのである。このような行為は相手に選択の余地を与えず、自由を与えない。この行為が行き過ぎたものが虐待にもつながると言えるだろう。子を持つ様式で愛する親は、子を私物化し所有するのである。

 結婚についても同じことが言える。アイルすことを持つ様式で経験することによって、相手を束縛することになる。何度も述べているように、現代社会は持つことが圧倒的に多い社会である。しかしそれと同時に、持つことは必ずしも心地よい物ではないと気づきだした人も徐々に増えているようである。愛しているが、その愛が持つ様式のものであれば、所有される側は自由を失い苦痛を感じる。持つ様式で愛している側も、思い通りになってくれない(所有されない)相手に苛立ちを覚える。日本の晩婚化が進む理由、離婚率増加の理由はこのあたりにも潜んでいるのではないか。持つ様式が主流の産業社会で、持つ様式で愛することに矛盾を感じる人が増えているのである。


 一方の、ある様式の愛することはどうのようなものであろうか。それは、愛する人(物)が存在すること、ただそこにいることに喜びを感じることである。フロムによれば、ほとんどの愛はいつしか持つ様式の愛へと移行していくという。しかし私自身は、このフロムの考えには賛成できない。永遠に続くある様式の愛することは、存在しないのだろうか。それだけで本が一冊書けてしまうような深い問いなのでここでは深くは取り上げないが、相手がいるだけでうれしいと幸せを感じることが続くような愛も存在すると、私は思っている。親にも寄るのだろうが、子に無償の愛を捧げる親もいるだろう。ある様式における愛することとはまさに無償の愛である。


宝石


第二章 持つ様式
第一節 持つ様式の基礎

 持つ様式の基礎は私たちが生きている産業社会のルールにある。産業社会は、私有財産、利益、そしてその限りない追及を是とする社会である。そのため判断が極端に偏っている。取得して、所有して、利益をあげることは、産業社会の中で個人が持つ権利である。このような社会のルールはその中に生きる人の性格(社会的性格)をも形作る。それは社会の状況によるもので、同じ日本であっても、生きる時代によて若干異なる性格を帯びてはいるが、しかし産業社会が持つ基本的なルールはお暗示である。財産を得て、それを守り、それを増やす(利益を上げる)ことである。そして財産を所有する人は、それだけで優れた存在として称賛され、羨望の眼差しが向けられる。日本で相手を持ち上げる時に「よっ、社長!」などと言うのは、社長が会社を持つ人、つまりは財産を持つ人だからである。産業社会では人は持ちたいのである。しかし、大勢の人は省庁にはなれない。そのような人はどうやって、財産を取得し、利益を上げたいという欲望を叶えるのか。答えは財産を持つ人とな字である。多く持つか、少なく持つかの違いでしかない。社長のように人から羨望されるほど多くを持たない人も、必ず何かを持っている。その持っている物を大切にし、できれば利益を上げるのだ。社長にはなれなかった人も、少しでも、食費を浮かそうとし(財産を守り)、宝くじなどを買う(財産を増やそうとする)。

 この感覚は生き物に対しても起こる。夫は妻を所有し、親は子を所有するのである。しかしこれらは家長制度の崩壊と共に減りつつある。財産も手に入れられず、生き物も所有できない人は、その願望をかなえるため、所有の範囲をより広める。友人、恋人、健康、美術品、装飾品、さらには自我までもがその中に含められる。

 時がは私たちの財産感覚の最も重要な対象である。なぜなら、それは誰もが持っている財産であり、最も多くのものを含むからである。体、名前、経歴、社会的地位、知識を含めた所有物としての自我。自分または他人が自分に対して持つイメージなどである。自我が私たちが所有する物のひとつと感じられる。

 観念や信条、習慣でさえも財産となりうる。毎朝同じ時間の電車に乗る人は、その習慣が財産なのである。週間でさえも財産になりるのである。

  第二節 持つことの性質

 持つことの性質は、私有財産の性質に由来する。持つ様式において問題となるのは、極端な言い方をすれば、物(または人)を取得し、取得した物を守ることだけである。そこに生産性はない。そして持つ様式は、他人を排除する様式でもある。自分の私有財産が侵されないように、他人を排除してでも守る傾向があるためである。同じものを欲した人物がいた場合には、その物を所有するために、その人を排除することになる。

 <私は何かを持つ>という文章は主体の私と、客体である何かとの関係を表している。そこには主体は永続的であり、客体もまた永続的であるという意味合いが含まれる。しかし、主体と客体は本当に永続的だろうか。私はいつか死ぬ。死ぬことで社会的地位を失うだろう。したがって永続的ではない。そして、持つものである客体もまた永続的ではない。いつしか壊れ、失われ、その価値を失い朽ちてゆく。何かを永続的に持つということは、永続的で破壊されない実体があるという幻想に基づいている。私は全てを持っているように見えても、結局は何も持っていない。私がある物を持ち、所有し、支配することは、生きる中でほんの一瞬のことだからである。

 究極的に言うと「私が何かを持つ」ということは、私が何かを持つことによって私を定義づけすることである。主体は私自身であるよりも、むしろ、客体である何かである。私の財産が私自身と同一性を構成しているのだ。「私は私である」という考え方の根底にあるのは「私はXを持つがゆえに私である」である。Xは、私が関係する物全てがそれになりえる物であり、この関係は私がそれらを持ち、永久的に所有し、支配する時に結ばれるものである。

 持つ様式においては私と私の持つ物の間に生きた関係はない。そこからは何も生まれてこなければ、何も感じられないのである。私自身も物となり、私はそれを持つ。逆の場合もある。例えば、ある資格を持った私は資格を所有した私として定義づけられ、周囲に認識される。資格によって判断され、私は資格に持たれるのである。持つ様式は主体と客体の生きた関係、生産的な関係ではない。それは主体と客体を物にする死んだ関係である。

  第三節 持つことを支える要因

 持つ様式を支える重要な要因は二つある。まず一つ目は、言語である。その中でも名前は持つ方向付けを強める働き方をしていると言えるだろう。人は名前を持っている。「歴史に名を遺す」という表現からもわかるように、名前はその人物が不滅の存在であるという幻想を生み出す。人物と名前は等価値となり、名前が残ることはその人物が永続的で不屈の物であることを明示する。普通名詞も同じであり、愛や悲しみ、喜びは実体のないものだが名前があることで、一見すると不変の実体のような錯覚に陥る。表象に名前を与えることで、不変の実在性を保証するように思われるのだ。この実在性により、持つことは容易になる。

 もう一つの要因は、生物学的に与えられた生きる欲求である。私たちはできるだけ長く生きようとする。もっと言えば不滅(永遠の命)を求める。不死鳥伝説などがそれをよく示している。しかし、いつかは死ぬことも経験上知っているので、不滅であると信じ込ませるような解決策に出る。その代表例が、古代エジプトのファラオ達だろう。自分の肉体を不滅にするためにミイラとなった。現代日本ではミイラの代わりに富と名声、時には悪名でさえ、歴史に残るという理由で不滅を生み出す。

 おそらく、財産の所有が一番の不滅への渇望を実現するものだろう。持つことが、あることと比べて、これほど強力なのはそのためである。もし自己自身が持つ物によって造られているのならば、持つ物が不滅であれば、その所有者も不滅であると言える。この生きる欲求はー古代エジプトのミイラに見られる肉体的不滅も、遺言などに見られる精神的不滅もー持つ様式を支える要因である。

キッチン


第三章 ある様式
第一節 ある様式の基礎

 ある様式は持つ様式に比べて説明がしにくい。現代社会にあまり見られない様式であるということもあるが、それ以上に記述しにくいということにある。それこそがある様式の基本である、能動性である。持つ様式の基本は物である、記述することができる。しかし、ある様式の基本は能動的な経験である。経験は経験であって、原則として記述できない。これと同様に生きている人間を正確に記述することもできない。なぜなら生きている人間は常に変化しているからである。伝記やエッセイなどのように特定の一部を記述することはできるが、あるがままはとうてい無理である。ある様式は生きた様式であるがために記述しにくく、定義しづらいのだ。

 ある様式の前提条件は、独立していること、自由であること、批判的理性のあることである。つまりは能動的であるということである。自らが関心を持ち、動き、考え、発展させていくには能動性は欠かせない。能動的であるということは、自分の才能を周りに向かって表現するということである。具体的には、愛すること、自分を新たにすること、関心を持つこと、成長すること、与えることなどである。しかし、これらの経験を全て言葉で表現することはできない。言葉は経験を指し示すが、経験そのものにはなり得ない。私は、ある様式と対極にある持つ様式を引き合いに出して、論じていくのが一番わかりやすく、説明もしやすい方法だと感じる。なぜなら高度に発達した産業社会において現代日本では、私も含めて持つ様式の方が理解しやしと言う人が圧倒的に多いからである。フロムはこの言葉にできないある様式を表現するのに次のように記している。

おそらく、ある様式を記述するには、マックス・フォンツィガー(MaxHunziger)が私に示唆したシンボルに寄るのが最上だろう。お会いガラスが光を通した時に青く見えるのは、それが他の全ての色を吸収して通さないからである。つまり、私たちがガラスを<青い>というのは、まさにそれが青い波動をとどめないからである。それは所有する物によってではなく、放出する物によって名付けられるのである。

前掲書、127ぺージ

 この例えから考えると、ある様式が表れるためには持つ様式を減らす必要がある。つまり、安心感と同一性を見出すために、持っているものにしがみついたり、地がや所有に執着したりすることを減らすのである。あることは自己中心性と利己心を捨てなければ現れない。

 しかし、たいていの人々からすれば持つ様式を捨てることは、不安なことである。人が物によって自分の存在を確認しているかのような社会で、物の方向付けを放棄することは難しいだろう。携帯電話がないと世の中から置いていかれるような錯覚に陥っている人もいるかもしれない。携帯電話を持っているだけでその人は周囲とつながっているのである。その人から携帯電話を取り上げると、その人は存在を確認できなくなるのだろうか。たいていの場合、別の方法で存在確認はなされるだろう。人いう手によって。人とじかに話すこと、関わることで、物がなくてもその人は自己の存在理由を確認していける。持つ様式により物がなければ存在を確認できないと信じているような人もまた、人の助けを必要とし、ある様式を取りうるのである。

  第二節 能動性と受動性

 あることの基本は能動性であるということはすでに述べた。能動性の対極にある受動性はあることを排除する。能動性と樹王政の言葉の意味について触れておきたい。なぜならこの二つの言葉はかなり広い意味を持っており、時として全く逆の意味にさえ使われることがあるからである。そして、あることの概念を理解するにはこの能動性と受動性の概念を理解しておく必要があるからである。

広辞苑によると能動と受動の定義づけは以下の通りである。

能動:自己の作用を他に及ぼすこと。働きかけ。 受動:他からの働きかけを受けること。受け身。 (広辞苑 第五版 岩波書店)

 しかし、実際の用法としては、能動性は普通、エネルギーの消費によって目に見える結果を生じる特質とされる。それゆえ、物を売り歩く営業マンの仕事は能動的であると言えよう。他にも、工場などで働く労働者も、書類を整理する秘書も、物を造り出す職人も、患者を治す医者も能動的と言える。言ってしまえば、能動性とは社会に認められた目的行動であり、社会に目に見える変化をもたらすものである。しかし、ここでいう能動性は行動を指していて、その背景にある人の意思を示すものではない。その対象が仕事熱心な職人であれ、イヤイヤ仕事をしている営業マンであれ同じである。広辞苑の表記では限定はなされていないが、実際の用法としては行動に対して使われている。

 

 しかし、行動に対する能動性ではある様式は現れない。そのような能動性においては、私は能動性の行動主体としての自分を経験しない。ただ行動の結果を経験するだけのことである。物事に向かう気持ちが伴い、意志が伴う能動性においてのみ、ある様式が現れる。ある様式は生産的である。意志の伴わない行動には成長もなければ、生産性もないのだ。仕事をイヤイヤこなしている営業マンは、その行動自体は能動的であったとしても、そこから何も学びはしない。意志の伴った能動性においてのみ、私は能動性の主体としての私自身を経験するのである。フロムはこの意志の伴った能動性を生産的能動性と呼んでいる。それは、何かを生み出す過程であり、何かを生産してその生産物との結びつきを保つ過程である。私の生産的能動性は私の力や能力の現れであり、私と生産的能動性とその結果は一体であるという意味が含まれているのである。


  第三節 見えることとあること

 あることを理解するには持つことと対比しながら理解していくのが良いと述べたが、もう一つ、あることのわかりやすい側面がある。それは見えることと対比することによってである。もし親切なように見える和t氏の親切さが下心を隠す仮面に過ぎないとすれば、もしリーダーシップっを発揮しているように見える私が虚栄心の強い目立ちたがり屋であったなら、私の顕在的行動は、私を動機付ける真の力と極端に矛盾することになる。私の行動の周囲への見え方は私の性格と異なっている。私の性格構造こそが私の行動の真の動機であり、それが私の現実のあり方を構成している。周囲に見える私は私の行動の動機を判断する一つの手段になり得るかもしれないが、真の判断手段、真の洞察手段は私の内的な現実に焦点をあてることにある。しかしそれは普通、直接に観察できるものではない。

 この内的な現実を洞察する心理学が精神分析である。一般的には、社会に順応した人には精神分析の必要はないと考えられている。しかし、真実は内面にあるのである。一見して見える方には現れない深層を分析し内面を洞察してこそ真実がわかるのである。

 あることはこの内面への洞察を深めることで道が開ける。あるkとおは、偽りの、幻想の姿(見えること)とは対照的に、現実の姿(内面の真実)に関連している。この意味で、あることの強さを増大するためには、自己の、他人の、周りの世界の現実への深い洞察が必要不可欠となる。あることへの道は表面を突き抜けて現実(真実)を洞察することから開けてくるのである。



ドア


第四章 日本における持つ様式とある様式
第一節 日本における持つ様式

 日本は、産業国である。つまり、持つ様式を主流とする国である。産業社会となる以前の日本は物ではなく、人中心の社会であった。今ほど豊かに物がない代わりに、人々との関係が豊かであった。物が豊かにないので、所有する物一つ一つが大切に扱われていた。しかし、現在は、物中心の社会となった。物は使い捨ての要素を多分に含み、最後まで使われることはほとんどなくなった。物を持っていることがステータスなのである。それもより多く、また新しい物を持っている程よい。今日では、保存ではなく消費が強調され、使い捨ての買い物が主流である。

 そして、これは日本特有なのだと思うが、みんなが持っている物を持っていると良いのである。数年前ユニクロが流行り出した時、ある女の子は「服を買うならユニクロじゃなきゃ嫌だ」と言ったそうである。その理由は、みんなが持っているから。決して彼女自身が、ユニクロの服を気に入っているわけでも好きなわけでもない。クラスの友達みんなが持っているからほしいというのである。ここに、持つ様式が存在する。彼女はユニクロの服を持つことで、自分はクラスの友達とおなじであると自分の存在を確認するのである。これはフランスやブラジルでは見られないことである。逆に、フランス人やブラジルジンは他とは違う物を求めるだろう。自分だけが持っている物。他人とは違う物を持つことがより幸福なのである。しかし、日本人は時として他人と同じものを求める。それは日本人にとっての幸福が集団の中にいるという安心感を、西洋人よりもより求めるからであろう。

 その一方で、他人と全く違うとまではいわないまでも、違いを求める。その違いの分だけ他人よりも幸福になれるからである。その違いとは新しさである。この新しいものへの欲求は、持つ様式を消費社会と密接に結びつけている。持つ様式に傾倒している人は、古い物を捨て、最新型を熱望するのである。

 最も日本人らしい例は携帯電話であろう。携帯電話は物であり、人とつながる手段でもある。周囲が持っていて、自分だけが持っていないと不安になる。みんなと同じように携帯電話を持ちたいが、違いもほしいのである。携帯電話を所有する喜びはつかの間のものであるように見える。一年もたたないうちに最新機種に買い替えるという人もいる。持ち主が携帯電話を財産として所有しながら、所有してしまうと関心を次に移すのにはいくつかの要因がある。第一に携帯電話は持ち主が気に入っている物ではなく、地位の象徴であり、力の延長であり、自我の構築物である。携帯電話を持つことによって、持ち主は実際には自我の断片を取得したのである。第二に買い替えの期間が短いということによって買い手の得る取得の興奮が高まるということである。新しい物を自分の物とすることは、それ自体が支配の感覚を強化し、それが頻繁になればなるほど興奮は強くなる。第三に買い替えは消費を伴う。消費をするためには稼ぎ(財産)を持っていなければならない。つまり、買い替えることができる私は、財産を持っていると感じられるのである。

 このように現代日本では持つ様式が主流であるといえよう。

ノート



  第二節  持つ様式からある様式へ

 若い世代の中で、大多数の人々とは異なった態度が育ちつつある。これらの若者の中に見出される消費の型は、持つことではなく、自分のしたいことをするがその結果として何も長続きすることを期待しない、という純粋な喜びの表現なのである。彼らは遠くまで、それも彼らの財産であるお金を払って出かけて行き、見たい物を見、聴きたい音楽を聴き、 会いたい人に会う。しかし、その結果として、彼らに形として残る物は何もない。例え、充分な真剣さや、準備、集中力が伴っていないにしても、彼らはあえてあろうとしているのである。報酬として何かを得ることや、守ることには関心を持たない。まだ自分も、実際の成果るの使用を与える目的も、見い題してはいないかもしれないが、持つためや消費するためではなく、彼らは自分自身であるために模索しているのである。これは持つ様式からある様式への変化である。

  一番わかりやすいのは、最近話題となっている<捨てる>ことであろう。持つ様式から考えれば捨てることは財産を捨てることである。所有したい、支配したいという欲求を満たしてくれる財産を捨てるのだ。この捨てることは雑誌でも特集が組まれ、捨てる生活などと題した本が出版されるほどに話題となっている。では、そのづてることにどのような意味があるのだろうか。人は捨てる時に何も考えずに捨てはしない。これは本当に自分にとって必要な物だろうか、捨ててしまっていいものだろうかと考える。この考える行為が大切なのである。私にとって大切なものとは何かを考えることは、私の内面について洞察することでもある。物を捨てることを通じて自分の基準を確立できるのだ。捨てることは自分の内なる真実について洞察することを必要とするのだ。

 あだまだ少数ではあるが、確実に持つ様式が孕む矛盾に人は気づきだしている。捨てる以外にも、ヨガで自分と向き合う時間を持つ人など、あることに目を向けだした人は多い。日本社会は産業社会であり、持つ様式が目立ってはいるが、そんな中で、ある様式に向かって動き出している人がいるのだ。

  第三節 新たな生き方を求めて

 物が増え、情報が増えている社会では生き方も多様である。選択肢が多くある社会の中で人はどのように生きていけばいいのだろうか。結論から言ってしまえば、自分の尺度をしっかりと持つことだ。周りの情報に振り回されず、自分にとって一番いいものを選ぶ。ある時には持つことが、幸福であるかもしれないし、ある時にはただあることが幸福かもしれない。今は、ほとんどのことを自分で選ぶことが出来る。専業主婦になるのか、仕事をバリバリこなすキャリアウーマンになるのか、仕事もこなし主婦業もするのか、結婚するのかしないのか、。男性にさえ主夫という選択肢が生まれつつある。自分の尺度を持つためには、今までの産業社会のルールであった、持てば持つほど幸せであるという概念を捨てなければならない。持つことが幸せを叶えられるという、持つ様式の基本概念だけに縛られず、あることも選択肢に入れていく必要がある。今の日本社会は極端に持つ様式に傾倒している。

 人間には両方の傾向が存在する。一方は持つ様式ー所有するー傾向であり、もう一方はあるー生産的能動性を持ち、わかち合い、与え、犠牲を伴うー傾向であり、この傾向の根拠は人間存在特有の条件と、他人と一体となることによって孤独を克服しようとする生来の欲求にある。全ての人間の中にはこの矛盾した二つの傾向が存在する。しかし、現代日本においては、利己的な態度が優位を締め、人々を動機づけられるのは、物質的利益への期待、すなわち報酬のみであり、連帯や犠牲への訴えは人々を動機づける上で効果がない、と信じられている。

 日本は、まだまだ物質的利益が人々の期待するものである。多くの選択肢の中から、自分にとって最上のものを見つけるには、単に物質的利益があればよしというわけにはいかない。自分にとっては何が良くて、何がダメなのかを判断するには自分を知る必要がある。自己を深く模索し、内面への動作をと深めることで、自分の基準が見えてくるだろう。この内面への洞察はあることへの道を開くものである。

 今後、日本人が選択肢の多い、この現代社会で充実した生き方をするには、自己自身を自分で見極め、あることと持つことのバランスをどうとるかを各自が各自なりに真剣に考えていく必要があるだろう。



 

島村知子

携帯電話など具体例には時代を感じますね。しかし本質的には変わっていないと思います。今から20年近く前の文章ですが、その後ヨガが流行り、断捨離が流行り、マインドフルネスが流行りました。自分に向き合う人、ある様式で生きる人が増えてきたのだと思います。ミニマリストなども持つ様式からの脱却です。

だから持たなくてもいい車はカーシェアリングになり、部屋はシェアハウスやシェアオフィスになりました。シェアする、わかち合うのはある様式の生き方です。ある様式がこの20年あまりでごく普通の選択肢になってきました。 コロナによって、家で過ごす時間が増え、人との関わり方が変わり、これからは持つ様式でも、ある様式だけでもなく自分のあり方によって持つ物を選ぶ時代の到来です。 私はこれからも手帳事業をを通じて、自分のあり方を知るお手伝いを、インテリアの仕事を通じて、あり方に沿った空間作りをサポートしていきたいと思います。 自分にとってしっくりくるが選べることが、幸せに自分を満たしてくれることだと思うから。





 
インテリアコーディネーター島村知子

島村知子 インテリアコーディネーター

打合せでじっくりと話を聞くスタイルで、あたたかな空間デザインを提案。インテリアを賢く使って、部屋が心地よく整う。​​私と家族の幸せな時間が増えるインテリアコーディネート、インテリア講座を開催中。

 

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